(45話)1980年は、たった1週間だけ2位になりました。めでたし、めでたし。


DSC07763 / shi_k

神宮球場ほどファンが選手と近づけるところはありませんでした。特に昼間、六大学や東都野球の開催が重なるときは、球場近くの絵画館前にある軟式野球グランド、日の丸球場や桜球場が試合前の練習場となります。グランドにファンは自由に出入りでき、選手との境界は綱一つで、真近に選手に声をかけたり出来たものでした。また、開門待ちで並んでいる阪神ファンの前を練習終わりのヤクルト選手が通り過ぎ、かけ声に応じてくれる選手と取り交わす会話もまた楽しいものでした。特にヤクルトの水谷、杉浦、渡辺、角、八重樫選手などは人気ものでした。試合終了後は、阪神の選手は正面玄関から出てきて宿舎のホテル(グリーンホテル淡路町)への送迎バス(Km観光)で帰るため、ここも綱一本で選手と接する事が出来ました。広島や中日選手の帰還となるとファンと仕切る綱もなく、帰り際に若き山本浩二や、谷沢健一にサインを求め、肩を叩いて送り出す事も可能でした。

当時、内野の応援団でアパレル会社に勤めているマルさんという方がおりました。選手ルームから阪神の選手が現れる前に、お約束のようにまずマルさんの第一声が始まります。「さー皆さん、まもなく阪神タイガースの選手の皆様がお帰りになります。本日は負けてしまいましたが暖かな拍手でお迎え下さい」。待ちつくすファンの前に最初に必ず現れるおじさんがいました。この方は、戦後まもなく阪神の関東遠征の常宿だった清水旅館(本郷にあった)の番頭さんという事でした。その後にスタッフ、そして監督、選手が現れるのですが、村山実監督が手をあげて出てくる時など、それは凄いオーラで、見得を切る歌舞伎役者のような格好よさ、まさに「巨人の星」の花形満そのものでした。現在の神宮球場は、全く選手と接するところは皆無で、すべて外と遮断された通路から宿舎行きのバスへ直行します。選手と野球ファンの思いが通じあわなくなった一因でもあります。

神宮球場の思い出の試合は?とよく聞かれる事があります。21年ぶりにリーグ優勝を決めた1985年10月16日が当然一番なのですが、他にもバースが7試合連続ホームランの日本記録をかけた試合やホームランアーティスト田淵幸一の300号、掛布の開幕戦満塁ホームランも忘れる事は出来ません。それでも私の中では上記の2試合を「神宮球場の忘れられない試合」としてあげたいのです。ともに14-3という一方的な大勝でしたが、そのスコア差とはあまり関係ありません。強いていえば、どちらの試合も愚図ついた、はっきりしない雨傘持参の中での試合でした。

(上段)



(上段)の試合があった1980年は岡田彰布がドラ1で阪神に入団した年でした。前年までヤクルトにおり、ヤクルトの日本一にも貢献したデーブ・ヒルトンを当時のブレイザー監督は開幕からセカンド、スタメンで使います。このヒルトンというのは極端なクラウチングスタイルではあったものの、常に全力疾走、ガッツあふれるプレーで同僚ラインバックと近いものがありました。しかし、開幕からあたりの出ないヒルトンにブーイングが起こりだします。なぜなら大物新人岡田もセカンドが定位置でした。ブレイザーはファンの声を無視し、あくまでもヒルトンを使い続けます。しかし岡田を見たいファンはヒルトンが打席にたつと、「岡田!岡田!」と絶叫し球場全体が「オカダコール」となります。凡退し淋しそうな顔でベンチに戻るヒルトンの顔は見るに忍びないものでした。ここで断っておきますが、甲子園球場も関東三球場も応援団は決して「オカダコール」はしていません。渦巻く「オカダコール」より、より大きな声で「ヒルトンコール」をするのですが、かき消されてしまったのが真実です。ヒルトンはたった18試合で退団となり、ブレイザーも球団の方針と折り合わず退団。27試合目から中西太打撃コーチが監督を代行します。

(上段)の試合は、開幕29戦目、ここでヤクルトに勝てば順位が逆転し2位になる試合でした。阪神は苦手安田を初回から打ち崩し、三回表には掛布、マイク、佐野、藤田、竹之内、岡田(当時8番)が連続ヒット。全員安打のおまけ付で江本も完投で勝利します。さてこの試合、ヤクルトファンにとっては、この日の出来事がきっかけでその後の応援を大きく変えていく歴史的試合でした。この頃はお互いのチームの外野ファン同志はかなり顔みしりで試合前には挨拶を交わしていました。信じられないと思いますが、後楽園の阪神、読売戦では試合前、お互いにエール交換のかたちで3名づつ、球団旗を持って相手の応援団に出向きます。ライトスタンドを埋め尽くした読売ファンから「がんばれ!がんばれ阪神!」というコールを受けるわけです。これが生じて1979年から1980年にかけては両チームの外野スタンドから掛け合いで「応援野次合戦」というのがはじまり球界の話題となりLPレコードにもなります。「阪神電車ボロ電車」「読売新聞ゴミ新聞」からはじまる野次合戦も、もちろん事前に打ち合わせしてのお約束であった事もこれまた事実です。後楽園から派生し甲子園に移った応援のひとつでした。

さて(上段)の試合に戻します。阪神は七回表に打者11人を送る猛攻で11点目をあげます。すっかり試合は色あせライトスタンドのヤクルトファンは既にやけくそになっています。七回裏、レフトスタンドからライトスタンドに上目線の余裕をかましたエールを送ります。ライトスタンドから何人かが大声で返してきますが、はっきりは分かりません。そのうち突然二人のサラリーマン風の男が傘を上に差し上げ立ち上がります。この絶妙のタイミングと仕草があまりにも面白く、レフトスタンドからはやんやの拍手と歓声と笑いが沸きおこります。八回裏には二人から数人になり傘を一斉に差し上げ、またまた大喝采となります。最初に傘をあげた二人は受け狙いではなく、こちらへの返事がわりの合図のつもりでした。試合後、バックネット裏からの帰り道、顔をあわせたヤクルトファンに傘の上げ下げが受けてた事を伝えます。

翌日は雨となり試合は中止となります。翌々日は天気もよく、熾烈な2位争いに40000人の観衆で埋まります。試合はヤクルトの左腕、虎キラー梶間に3安打に抑えられ敗北します。22安打打った次の試合は3安打、阪神らしいといえばそれまでですが・・・この翌日から甲子園で読売に連勝し再度2位となります。結局このたった一週間がシーズンの最高位でした。この年は広島が優勝、2位がヤクルトでした。しかし、この試合では思いもかけない光景が生まれます。晴れにもかかわらず、傘をあげて立ち上がるヤクルトファンが数十人に増えていたのでした。ここから試合を重ねるごとに神宮球場のヤクルトファンの傘揚げの数が増えていくのですが東京音頭とのコラボはまだまだ先の話でした。

この傘の応援は「少ないヤクルトファンを多く見せるため」というのは後付だと思います。「傘は危ないから」「まわりに迷惑をかけるから」という理由で応援団が自主規制した時期もありました。傘上げはヤクルトの応援団長の発案から始まったともいわれ真実は藪の中です。しかしそれとは別に、戦後の応援団を語る中で、ヤクルトの岡田正泰団長ほど、ファンに愛され、選手に愛され、球団にも可愛がられ、漫画のキャラクターにまでなった名物応援団長は二度と出てこないと思います。

下段



(下段)の試合は雨があがりぬかるんだ中での試合でした。暗黒の時代は既に始まり中村監督の2年目、連続最下位がほぼ決定したあたりの試合だと思います。この試合でもホームランを打っている八木裕が絶好調の年でした。この試合を何故覚えているかといえば、ある阪神の選手がヒットを打ったのですが、その瞬間の拍手はまばらで、ただただ、球場全体を包む阪神ファンから嘲笑気味のため息だけが残ったのでした。(続く)

 


週刊虎バカクラブ
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