若菜嘉晴

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 私はどちらかというとモノに執着しないタチで、これだけ長いことタイガースファンをやっていてもあまり積極的にモノを集めたり、求めたりしない。


でも、「そんなに好きなんや」てのが世間にバレるにしたがって、少しずつ「あんたが持っていた方がいいだろうから、これあげる」って感じでモノが増えている。
 いくつかある超ド級のお宝(自己評価)の中でも自信があるのが、ヒビの入ったサイン入りバット2本だ。1本は虎印の焼き印が入った美津和タイガーの「掛布雅之31」。もう1本はゼットで「S56.5.5 若菜嘉晴39」。こればかりは…と、家人の実家にあったものを強奪した(笑)。
 昭和56年というと優勝の4年前、安藤監督の時で、戦力が徐々に整っていくあたり。タイガースは中位を行ったり来たりという実力。働き盛りの年齢に良い選手がたくさんいたが、優勝には一歩も二歩も届かない。その頃安定して強かった広島や巨人に比べると、なんとなくダラダラしていて、自分勝手なチームという印象があった。力はあるクセに、どこか燃えない仕事ぶり…。まあ当時を知る人々の文献にもその理由が示されているから、単に印象だけではないのだと思う。若菜もまたそれにあてはまる捕手だったように思う。
 少年の私には、大好きな田淵の代わりに捕手を守っている若菜を初めは好きになれなかったけれど、すぐに田淵よりずっと有用な捕手であることはわかった。少なくとも守りについては。見た目もちょっとワルっぽかったけど(ていうか当時のタイガースの選手たちは、皆、髪型も服装もスゴかったw)、カッコ良かった。
 39若菜は、私にとってすごく印象深い捕手なのだが、タイガースでの実働はわずか4年。その4年すべてオールスターに出場していて(ファン投票選出3回)、初年度はダイヤモンドグラブ賞をもらっている。でも退団。掃いて捨てるほどあったゴタゴタ退団劇の一人だった。
 昨日の話じゃないけれど、背番号39と言えば、若菜と矢野しか印象にない。実際のところはその間に、ストローター、八木茂、益山性旭、吉田康夫、グリーンウェルと挟むのだけれど…(笑)。

恩師・若菜氏がゲキ「矢野から盗め」(デイリー)
 阪神OBで、ダイエー時代にバッテリーコーチとして城島を育てた若菜嘉晴氏(56)が16日、佐世保市内で自主トレを積む教え子を激励に訪れた。
 城島の自主トレを視察し「去年よりも体は仕上がっている。心に余裕もある」と太鼓判を押した若菜氏。柳川商の同級生で、79年の「世紀のトレード」の際に同じくクラウンから阪神に移った間柄の真弓監督には「4番だけは打たしてくれるな。勝つためにも」と仰天アドバイスを送ったことを明かした。
 理由として「楽なところで走者をかえすのが一番いい」とポイントゲッターとしての資質を強調。さらに「今は打つことよりも投手陣をどう立て直すかが課題」と説明した。「守備でも矢野の良いところを聞き出して、盗んでほしい。それも捕手の仕事」と新天地に向かう教え子にゲキを飛ばしていた。

 出身と現役時代で真弓と繋がり、背番号で矢野と繋がり、師弟関係で城島と繋がる。白木のバットを眺めながら、10タイガースと妙な縁を持つ昭和56年の若菜に思いを馳せた。

(追記) 震災から15年、こちらにも思いを馳せて合掌。

コメント

  1. ジジィ より:

    若菜、「パーマヘアーで暴れん坊」のイメージですが、あのスローイングの速さには当時衝撃を受けた記憶があります。
    辞め方が…だったので、もうタイガースに関わる事はないかと思っていましたが意外な所から、また縁がありましたね。
    『39』は、若菜・グリーンウェル・矢野のイメージが強くて、益山性旭(「性は…の性」で有名)の事は忘れていました。改めて背番号(投手野手捕手と)めちゃくちゃですねぇー!(話しが逸れてすみません。まだ昨日の怒りが…)

  2. スーパーエリーバ より:

     私は4位辺りをウロウロする安藤監督時代が結構好きでした。今の解説者としての安藤さんも好きですし、また監督に成って頂きたいと思う中の一人です。(もう無いやろな?)
     この頃のガラガラの甲子園も好きでした。今なら考えられないですが、観衆2万人前後で、席は移動し放題(笑)。1試合で、高い所から、低い所から、色んなアングルで楽しませてもらった思い出が有ります。
     若菜氏といえば、30代の方には、晩年の大洋時代、『ファミスタ』に出て来る、足が遅くて、そない打てない、すぐ「だいだ」を出される『わかな』のイメージが強いんじゃないですかね。

  3. ダンディ19 より:

    テーマから逸れますが、若菜といえば小林繁でした。
    私にとって阪神タイガースを初めてリアルタイムで追っかけたシーズンが1979年。
    掛布が打ち、小林・若菜のバッテリーが面白いように巨人をねじ伏せる…。夏休みシーズンに破竹の快進撃で一挙に首位戦線に躍り出て甲子園でカープと天王山を闘いました。
    最後は4位でフィニッシュしましたが、小林の最多勝&沢村賞。掛布はホームラン王。とても印象深いシーズンでした。
    これが私の心の中のタイガースの原風景でした。
    さよならミスターダンディ「19」合掌…

  4. torao より:

    ダンディ19さん、驚きました。
    名前こそ書き連ねませんでしたが、当然今朝の記事を書きながら、江本や小林が支えていた「若菜時代」を思い出していたところです。本当に若くして…残念です。

  5. ぴょんたのパパ より:

    私は小林繁のファンでしたが、小林投手とともに巨人から阪神ファンになりました。移籍後、小林の当番日に合わせ、甲子園に応援に行き、甲子園の当番日はほとんど見ました。おかげで1回裏のウォーミングアップを見るだけでその日の結果がほぼわかりました。(彼はそれほどの球威もなく、絶妙なコントロールもなく、ほとんど気合だけで抑えていたので、気の乗っている・いないがいつも見てるとわかりました。)彼のおかげで、阪神の選手に興味を持ち、阪神が大好きになりました。突然の訃報にただ、呆然としています。今は、ただ彼の冥福を祈り、感動をありがとうといいたいです。

  6. 西田辺 より:

    昔の野球選手の私服のセンスたるや・・・。
    若菜選手も御多分に漏れずというか、かなりキツイ部類に入っていたような。
    まぁ、それはともかく若菜?矢野ー城島の縁には何か不思議なものを感じますね。
    小林繁さん
    イカツい選手たちの中にあって、異彩を放ったダンディぶりと、魂の投球で
    魅了した稀有な投手。
    最近では、因縁の江川投手とのCM出演でも話題になり、日ハムの投手コーチ
    としても期待が大きかっただけに残念でなりません。
    心よりご冥福をお祈りいたします。

  7. 熊虎 より:

    小林繁氏の訃報。
    本当に泣きたくなる。
    巨人以外のスター・田淵の頃はなんとなく阪神が好きだった。でもハッキリ覚えている。小林からは本当に阪神が好きになっていた。私の中では阪神の監督になって欲しい人物No.1だった。
    子供の頃、サイドスローのまねをした。私はたぶん、さんまより先に真似してた。ものすごくカッコよかった。今でもタテ縞のイメージしか頭に浮かばない。
    信じられない。すごく悲しい。

  8. 阿倍野のファン より:

    阪神の試合を初めて観たのは、1979.4.10小林繁投手の移籍初登板の日でした。                       当時小学二年の私が今でも忘れられない事. 西澤アナの実況              「今日の先発はこの人です」        「小林投手はコーヒー一杯だけでマウンドに上がります」                「シピン選手は昼食はカレーライスでした」                      あと、小林投手が左打席に入ったこと、凡打で一塁に駆け込む際、大げさに両腕両脚を上げておどけていたこと、次の打席で右前打を放ったこと、次打者真弓が、併殺打に退いたこと・・                     直前の選抜高校野球での、石井、島田、牛島、香川、小早川,阿部ら、地元勢の活躍に興奮冷めやらない私が、江川事件以来の判官贔屓と相まって、この日より、プロ野球に、そしてタイガースに魅入られたのです。                             どこか哀愁漂わせての熱投は、忘れられません。                         

  9. Yalkeys より:

    toraoさんがコメントされる前に、投稿される方が居られるので私も・・・
    衝撃の移籍が発表された時から、私の巨人嫌いは一気に加速されていきました。もちろん子供の頃からのタイガースファンでしたが、巨人にくさが一層膨らんでいきました。当時から巨人は、敢えて言うならば「手段を選ばず欲しい選手を獲る」球団だったのかも知れません。その流れが金満球団へと変身したのだと思います。
    CMで小林と江川の対談を見て、ホッとしたのを憶えていますが、江川が語っているようにお2人の心の中では「完全に終っているというものではない」のかも知れませんネ。
    今はただ、小林繁さんのご冥福をお祈りするばかりです。