数日の間、背番号の話や昔の話をした。
藤田平がどうとか、北村がどうとか、若菜がどうとか、真弓監督との縁がどうだとか…。しばし懐かしさに浸っていた。そうしたらその時代、ほんの短い間ではあるが確かにエースであった小林繁氏の訃報が飛び込んできた。
V9末期?第1期長嶋時代のジャイアンツでエース格に成長し、タイガースに移籍後5年間、ローテの軸として活躍した。その経歴を「げんまつWEBタイガース歴史研究室」より引く。
1952.11.14生
出身地 鳥取県東伯郡赤碕町
出身校 由良育英高校
ノンプロ 神戸大丸(全大丸)
投手 右下投右打
71年 ドラフト6位で読売入団
72年?78年 読売ジャイアンツ 76年18勝77年18勝 コミッショナー裁定により江川?小林トレードで阪神移籍
79年 阪神タイガース 背番号19 37試合 22勝9敗1S 2.89
最多勝 沢村賞 ベストナイン 6月月間MVP オールスターファン投票出場
80年 開幕投手 37試合 15勝14敗2S 3.02 オールスターファン投票出場
81年 開幕投手 32試合 16勝10敗2S 3.01 オールスター出場 開幕戦でまさかのサヨナラ暴投
82年 開幕投手 27試合 11勝9敗 3.42 オールスター辞退
83年 開幕投手 35試合 13勝14敗1S 4.05 引退
TBS解説者
朝日放送解説者
97年?01年 近鉄投手コーチ
02年? CS系解説者
実働11年 登板374試合 勝利139 敗戦95 S17 SP22 完投96 完封19 投球回数2029.1 奪三振1273 防御率3.18
「江川事件」で、世間は「自分勝手な江川」と「人生を江川に振り回された小林」という目で見た。選手個人のレベルではそのとおりだが、球団レベルでは阪神だって片棒担ぎだ。それでもファン獲得という点で阪神はトクをしただろう。それは皆、小林の並々ならぬ気迫のおかげだった。
巨人にだけは絶対に負けない!というメラメラとした闘志。カクカクとした動き、低く沈み込んで、溜めた力を爆発させるような横手のフォーム、脱げる帽子、ガッツポーズ、今でも目に浮かぶ。
二軍コーチでの手腕を買われて、今年からは一軍投手コーチに就任していた。前日はニッポンハム本社でイベントがあり、梨田監督や選手たちと会っている。誰もその翌日、小林繁コーチが帰らぬ人になるなどとは思ってもいない。もちろん本人だってそうだったろう。
何度も何度も大きな波に飲み込まれそうになりながら、腰を落として踏ん張って、気迫でその大波を振り払う。この体のどこにそんな力があるのか?赤々とした炎を燃やすような生き方。ショッキングな別れに相違ないが、「小林繁らしい最期だな」とも思う。合掌。
コメント
現役引退の時も潔く、そして早過ぎましたが…57歳、やはり早過ぎます。
あの頃、中学生の私が一生懸命応援していたタイガースは、打者では掛布というニューヒーローがいたものの、投手の方は壊滅状態でした。
江夏、古沢が抜け、ドラフトでも74・75年と即戦力投手に入団を拒否され、76年の益山性旭・77年の伊藤隆文、即戦力と言われた両投手は期待ハズレ、工藤一彦も伸び悩み、唯一江本猛紀投手だけがある程度計算できるだけ…。
そんな時代に、まさに救世主的に移籍してきたのが『小林繁』さんでした。
当時(鹿児島では)周りは99%讀賣ファンの状況の中、その讀賣の強打者からバッタバッタと三振を奪うカッコイイ小林さんにどれだけ憧れ、どれだけ感謝した事か!
あなたは、私の中で一生ヒーローです。
心からご冥福をお祈りいたします。
江川問題が起こった時、私は中学生でした。
事態を収拾するために当時のコミッショナーが出した「強い要望」により、キャンプ前日にトレード通告を受けた小林繁投手。
巨人に言いたいことも色々あったと思いますが、胸にしまいこみ、深夜に行われた記者会見では「同情はされたくない」、「阪神に行ってからの結果で判断して欲しい」と毅然と語る姿は印象的でした。
阪神での一年目、巨人相手に8連勝、22勝を上げて最多勝に輝いた姿は、鬼気迫るものがありました。
まだお若かったのに残念です。ご冥福をお祈り致します。
小林繁。
引退が突然ならその最期も突然でした。
世界の一本足、王に二本足で打たせたり
堀内相手に左打席に立ち怒らせり
一塁へもも上げダッシュで走ったり
初年度巨人戦に強かったことがなによりでした。
あまり知られていないと思いますが、
昭和48年優勝を逃した原因のひとつである10月11日の10-10の引き分けのゲーム。
序盤の7点リードを守れず終盤追いつかれたゲームですがその試合を締めくくったのが当時新人の小林でした。見たこともない変なフォームの背番号40の投手を見てこれなら打てると思ったけど打てませんでした。
ご冥福をお祈りします。
ジャイアンツ戦での熱気を覚えています。このチームだけには負けたくないという気迫が、テレビから噴出していましたね。
すごい試合を幾つも造ってくれて、阪神ファンを喜ばせてくれました。
残念です。
ぼくが小学生の時、野球に興味がなかったぼくが、この世界にとりつかれたのは、何を隠そう間違いなく小林繁のファンになったからです。悪者江川に対し、正義の味方マジンガーZのごとく立ち向かうヒーローの出現にたちまちプロ野球のファンとなったのです。それからカケフ、バース、藤川と追い続け数十年がたちました。ぼくにとって運命だなあと思うのは、数年前から、なんとその小林繁は我が家の近くにひっそりと住んでいたことです。かってのスターが、ゴルフ場に勤務しながら田舎でひっそり暮らすその姿は、TVに出まくり稼ぎまくる江川とは対照的で、切なくも厳粛な人生だなあとずっと思っていました。
最近になって中央球界への復帰話等もあり、
また表舞台へいけるのかと嬉しく思っておりましたが、この結末に途方にくれております。
江川への思い、早期引退の真相などぼくの周りにもすき放題言う輩がおりますが、決して愚痴や弱音を吐かぬ男でした。だからこそその真相はだれも知らないし今後もわからないでしょう。さようならぼくを阪神ファンへと導いてくれた恩師、そして近所のおっちゃん小林繁
涙 涙 涙
私がタイガースを見だして、一番最初に好きに成った投手が、小林繁投手でした。独特の投球フォームが好きで、よくマネしたもんです。帽子を飛ばして投げる姿が懐かしいですね。早すぎる引退の時も悲しかったですが、今回はもっと早過ぎますね。皆様書かれている様に、人を引付ける魅力の有る選手だったと思います。私も、この投手が、私がタイガースにハマっていく一因に成ったった事は間違ないと思います。
ご冥福をお祈り致します。
阪神ファンなりたての少年時代、小林繁と掛布がヒーローでした。あのピッチングフォーム(帽子ゆるめで)真似した頃を懐かしく思います。
できればもう一度阪神のユニフォームを着て欲しかった。合掌。
線香花火のような人生と形容される人がいるけれど、小林選手は本当に阪神に来てPLの花火大会のような活躍をしてくれました。
江夏以降読売から勝星を計算できる投手など
一人もいなかった時代です。
貴方に明日の阪神を夢見たのはわたしひとりではないと思います。
余談ですが、渡邊投手が出て来たとき
小林の再来だと思った事を告白しておきます。
ご冥福をお祈りいたします。
バースと藤川命さん、
突然不躾で申し訳ございません。
私、実家が福井市でして、小林投手が福井で亡くなられ葬儀も福井で執り行う、あまつさえここのところはずっと福井在住であったことを始めてこの訃報で知り、二重の驚きに衝撃を覚えております。
何故の福井との縁・・"近所のおっちゃん小林繁"と呼べるバースと藤川命さんの心中もお察しいたします。
最近、訃報に接する度に「この人は何を思い残して旅立ったのだろう」と
思うようになりました。
色んな事情もあったが、福井を終の住処とし、地道に少年野球の指導を
引き受けたと聞く。
教え子にはプロ野球へと進んだ選手もいる。
北海道での役目を終えたら、福井のBCリーグのチームと少年野球の
指導をしたいと生前友人に語っていたとか。
自分を育ててくれた野球に、恩返しをする事に人生を捧げたいと
考えていたのかも知れない。
現役時代の投球と同じ、一本義な人だったと言う事が偲ばれる。
彼が福井に落とした野球の種が、いつか大きく花開けば、それが
故人に対する最良の餞になると思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。
自分が阪神ファンになった頃には小林繁氏は既に現役から引退していましたのでリアルタイムでの活躍は見ていません。しかし、巨人では全盛期にも関わらず江川氏によって阪神に移籍されても腐らずに逆に見返した所は今の時代には失われている反骨心だったと思います。
今年から日ハムの投手コーチに就任して球界に復帰すると思っていた矢先の訃報で今は唖然としています。何時かは真弓監督と一緒に阪神で指導してほしかったです。ご冥福をお祈りいたします。
小林コーチのご冥福をお祈りします。
巨人も罪なことをしたものだなあと思いつつ、、江川についてはそれなりに同情的な思いでいます。選手に球団を選ぶ自由がないことが過酷であり、しかも当時はFAもなかったわけですからね。
ところで、江川事件から30年以上経ったわkですが、NPBはドラフト指名権と支配下選手の交換トレードは認めてもいいんじゃないかな。。NFLでは普通に行われていることのようですし、別に悪いことではないと思いますので。
かって、私の理想は、掛布監督、田尾打撃コーチ、小林投手コーチでした。
夢は不可能になりました。
ご冥福をお祈りいたします。
いつも楽しく読ませていただいております。
小林繁氏の突然の訃報は、あまりにも突然で、そしてショックでした。
一言。
とにかくカッコよかった。それまで私の知っていたどの投手よりも巨人戦に強かった。村山も上田も若生も江夏だって、巨人戦には勝つこともあったが、負けも多かった。その巨人の強力打線を面白いように仕留めていた。
インタビューも彼の語りは大人であり、信念
にあふれており、巨人出身であることがすこし
気に食わないことを除けば最高の選手でした。
今回の訃報記事で巨人にドラフト6位で入ったこを初めて知りました。
ドラフト6位でこんなに実績を残すなんて
すごいことです。
将来はタイガースのコーチ、監督になってくれることを期待していたのに、残念です。
まだハナタレの頃、野球の「や」の字もよくわかっていないのに、変則フォームがあまりにもカッコ良すぎて、いつも横手から投げて遊んでおりました。(その後、少年野球入団時に矯正されましたが)
リアルタイムがギリギリなので、想い入れはみなさんほど強烈ではありませんが、それでも大切な選手でした。
心よりご冥福をお祈り致します。
昭和54年4月中学3年の東京修学旅行、人生初のプロ野球観戦は神宮球場ヤクルト‐阪神2回戦。先発マウンドには讀賣から移籍三試合目の登板となる小林繁投手。初回2点、二回1点と早々に敵先発松岡弘投手をKO!二番手梶間健一投手を打ち倦むも、小林投手ヤクルト打線を沈黙させ3‐0完封勝利。
昭和58年10月、後楽園球場讀賣‐阪神最終26回戦。江川‐オルセンの先発、両投手好投。初回二塁打の北村を掛布の適時打で還した先制点、いわゆるスミ1のみで九回裏を1点のリードで迎える。オルセン、無死満塁のピンチを招くも外野犠飛の1失点で凌ぎ延長へ。二番手加藤初、福間納が10回を零封。11回表加藤ピンチを招き三番手橋本から、来日一年目のバースが決勝の二点適時二塁打。その裏讀賣の攻撃に入る前の場内アナウンス『阪神タイガース、選手の交代をお知らせいたします。ピッチャー福間に代わりまして小林。9番ピッチャー小林、背番号19』。この試合、得点機に並ぶ歓声がスタンドからあがった。後年『8月にはシーズン終了後の引退の意向を言われていた』と語った当時の安藤統男監督のファンサービス&小林投手への想いが表れた起用ではなかったか。11回裏を零封し3‐1で対讀賣最終戦を勝利で飾った。勝利投手福間、セーブ小林。
自身プロ野球初観戦初勝利&対讀賣戦初観戦初勝利でともにマウンド上にいた小林繁投手。勝利に歓喜したあの夜『来季はもっと球場で』と思いきやよもやの引退。そして今季、日本ハム一軍投手コーチとして、昨季の二軍投手コーチとしての活躍に続いてその手腕を発揮するであろうと思っていた矢先の急逝。なんともいたたまれません…。
小林繁氏の御冥福を御祈りいたします。
ラインバック、そして小林繁
自分の子供の頃の憧れの選手がまた一人・・・
本当に哀しいです
今年の復刻ユニに合わせて、ハムとの交流戦で何か追悼イベントをやってくれないだろうか?
toraoさん、球団社長に聞いてみて(笑
地方に育った僕は、禁句かもしれませんが巨人ファンでした。
だけど、あの一件で、
そう、江川-小林トレードで、こんな汚いやり方をする球団なんか、もう応援できない・・・
そして僕は、阪神ファンになったんです。
巨人なんて、巨人なんて、巨人なんて・・・
そんな思いで、一心不乱に小林さんを応援して、阪神を応援して・・・
今では会社で知らぬ者がいないくらいの虎党。一人娘(10才)も「生まれた時から阪神ファン」と自分で言うくらいに育てあげました。
小林さん、僕は、あなたを応援することで阪神を応援し、結果阪神ファンになりました。
そして、阪神ファンの阪神を愛する気持ちは、ただ何となく巨人ファンだった僕の心を変えてくれました。本当に大切なのは「心の熱さ」だと、小林さんや阪神ファンの応援から教えてもらいました。
ありがとう。本当にありがとう。
数年前の江川さんとのCMでの共演、CMを制作するにあたっての番組も見ましたが、小林さんの本当の気持ちはどうだったのでしょう。
翻弄され、負けまいと頑張り、結果を残し、阪神在籍の5年間、全て10勝以上!
ストイックに「15勝できなかったら引退する」の言葉通り、13勝もしたのに引退してしまうなんて。
まだ若いあなたが、亡くなってしまうなんて・・・
赤星ぃ、藤本ぉ、今岡ぁ、ジェフぅ、小林ぃ、今年は5年以上活躍した戦士との別れが次々とありぎて、気持ちの整理ができないじゃないか!
こらぁ真弓!他人事みたいなことばっかり言うとらんと、しっかり監督業やって、優勝したらんかい(怒)
一傑も頑張れよッ!