名護で日ハムとの練習試合。3人の先発候補がいずれも3回ゼロの好投で完封リレーを決めた。
ローテ投手の実績ある青柳は「当然」として、先発した飯田と最後を任された浜地がともにキビキビとイキのいい投球で、ローテ争いに堂々と名乗りをあげたのが大きい。この後もなんとか粘って、残っていってくれるといいね。
野手では借金から始まった熊谷が攻守でいいところを見せてとりあえず挽回。
あとは、当たりそこねの打球でファウルと決めつけて走らなかった木浪と、ピッチャーゴロで全力疾走した大山に二人の野球に対する考え方が出ていた。
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ノムさんこと野村克也さんが亡くなった。80歳をゆうに越えて、死ぬまで野球人、野球ファンから必要とされ、こうして惜しまれるのだから素晴らしい人生だったのは間違いない。
監督じゃなくなって10年ほどたっても、誰もが「野村監督」と呼んだ。ずっとずっと年下の野球ファンからも「ノムさん」と呼ばれて、親しまれた。煙たがられるようで、かわいらしくもある人柄のおかげだろう。
ホームラン記録、戦後初の三冠王といった強打の名捕手であり、3度も日本一になった名監督。
その中で3年連続最下位の阪神監督時代を自ら「汚点」と話のネタにしているが、阪神タイガースにとっては大事な3年間だった。人の考え方を変え、文化を変えた。どうしようもない赤ん坊のようなチームを自分の足で立てるまでに育てた。エース井川を育て、正捕手矢野の土台をつくり、得点源赤星を指名、抜擢した。その他多くの「脇役たち」も野村監督時代に牙を研いだ。だから星野仙一氏は阪神に来たのであるし、久万俊二郎オーナーも「電鉄の金庫」を開けたのだ。その後、2度の優勝はノムさんが築いた礎のおかげにほかならない。阪神タイガースの大恩人だ。
個人的には、小学生のときに所属していた東京都稲城市の少年野球チーム「東京コメッツ」の練習を見に来てくれて、その後、公民館で市内の少年野球チームを集めて講演会をしてくれた。アルバムにはまだ南海で現役捕手だった頃のノムさんとチームみんなで撮った記念写真が貼ってある。後日、それらのチーム全員を後楽園球場の日ハム戦ナイターに招待してくれた。もちろん打席に入る野村氏に子どもたちの大声援が飛んだ。
感謝して合掌する。
コメント
野村克也氏の死因は愛してた亡き妻のサッチーと同じやったとか…
タイガースの監督4年目に掛かろうかという時にサッチーの事で監督を続けられなくなりタイガースを去りましたが、愛する妻を責めずにサッチーの味方でいた野村克也氏の方が素敵に見えてました。
ボヤキはありましたが卑屈にならずのノムさんは素敵やったです。合掌。
タイガースの試合は青柳の好投、実戦初出場の梅野の攻守の活躍、島田の活躍もあって勝ちましたが、残塁が多かったですね。
満塁で江越…ボール球を振ってストライクを見逃して、またボール球を振っての三振はねぇ…
ノムさんが生きてたら「考えて野球をせんか!」ってボヤキが入ってたで!頑張れ!
今日はキャンプ休日ですが、どれだけの選手が休日返上で練習をするんでしょうかね?
休むのも練習の一つですが、競争の中で頑張るのも一つです。
リフレッシュする選手、継続をする選手が居ると思いますが、みんな頑張れ!
野村監督逝去の報道にはびっくりしました。タイガースの監督時代にチームを変えようと努力されてたのは今でも思い出されます。F1セブンの名付け親で、新庄を宇宙人と言い色んな話題を提供してくれました。謹んでお悔やみ申し上げます。
日ハムとの練習試合。勝ちには勝ちましたが、残塁の多い気の重い試合でしたね。
そんな中木浪のボーンヘッドにはがっかりしました。
確か去年も同じようなことをして懲罰交代させられてました。あれではレギュラーは取れません。しっかり反省してもらいたいですね。
投手3人はまずまずの内容でした。まだまだ開幕ローテーションは決まってませんから、飯田、浜地はチャンスやと思うので頑張って欲しいです。
97年に神宮でヤクルトのユニを着て舞ったノムさんを観ました。スコアは確か1-17。
あの時に本当に強くなりたい。強いチームになりたいと、場内一周を見届けて強く思いました。
その後まさか、タテジマを着てくれる事になりその時はコレで強くなれる。チームは変わる!とワクワクしました。3年間結果は出ませんでしたが、あの礎があったからこそ、今の虎はあります。
天国で久万オーナーにも会う事でしょう。仙さんにも会う事でしょう。
さっちーと仲良くしつつも野球界を見守ってください。
ありがとうございました!
野村さんの実績を挙げると、枚挙に暇がない。
福本豊氏の足をどうにか封じ込めようと、牽制技術やクイックモーションを
先鋭化させたり、ブレイザーの提唱した「シンキング・ベースボール」を
広く日本球界に広めた功労者。
選手としても監督としても素晴らしい実績を残した。
「ワシはいつでもNo.2や」「長嶋がひまわりなら、ワシはひっそりと咲く月見草」
と、自虐的に笑ってた。
いやいや、何を仰いますやら。
日本のプロ野球氏に輝く功績ですよ。
私が「野村克也」と言う名前を初めて見たのは、野球好きの伯父が買ってきた
漫画「あぶさん」。
大酒飲みの景浦を、代打として輝かせる物語をワクワクして読んだ記憶があります。
今年、ホークスの正捕手甲斐が背番号を野村が着けていた「19」に変えた年に
お亡くなりになるなんて・・・。
私のような古臭い野球ファンにとって、そのホークスの19番に何て言うのか
楽しみではあったんですが。
阪神の監督時代は、色々恵まれない事もあって、野村氏の経歴に傷をつけたようで
逆に申し訳ない気もしました。
でも、誰が何と言おうと、あの時代がなければその後もなかった事は紛れもない
事実です。
お空の上で、稲尾さんや金田さん、沢村栄治さんともバッテリーを組んで野球を
楽しんでくれてるでしょうね。
ありがとうございました。
長い間お疲れ様でした。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
外様監督だった当時、球団にはびこっていた旧態依然とした一派との軋轢で苦労していたことは、週刊文春に連載中のドキュメントにも描かれたとおり。
ノムさんのおかげで次にバトンを引き渡すことになった星野さんへの地ならしとなったことは、その後のチームの変革ぶりが証明してくれる。
タイガースの三年間が最大の汚点だったと冗談めかして口にしてましたが、タイガースにとっては大恩人でした。
ノムさん、ありがとうございました。