阪神・淡路大震災から19年。「阪神」といえば「タイガース」か「電車」か「百貨店」と昔から決まっていたのだが、その時から「・淡路大震災」も一つの定番に加わった。先日岡本育子さんが当時のことについて書いたものが良かった。時代を感じる。
阪神淡路大震災から19年、阪神鳴尾浜球場の歴史と同じです。(yahooニュース)
関東に住んでいる私は、地震があったことも知らず、朝起きてテレビに映る現実とは思えない光景に唖然とし、尼崎の親類に連絡がとれず心配していた。少ししてから片づけを手伝うために空路で関西に行った時、やはりブルーシートの多さに驚いたのを憶えている。
東北の震災の時、阪神・淡路で経験したこと、感じたことを活かし、力になった関西の方が大勢いた。忘れた方がいいこともあるし、風化は自然現象なので避けられないこと。経験を行動にして、それをさらに文化から伝統へと変えていくことができたら、それは大きいことだろう。
コメント
19年前の今日、何にもしらず朝からスキーを楽しみ夜まで何も知らなかった私は、毎年この時期になると自責の念にかられ、あの頃毎週行っていたスキーもアレ以来一度も行っていません。
そしてその年の夏、母校の応援を兼ねて甲子園へ行った時神戸に寄り、やはりブルーシートの多さに更に心を痛めました。
この震災を知らない世代も多くプロ野球界にも入団するほど時が経ちましたが、多くの犠牲者が出た事は決して風化させてはいけませんね!
toraoさんが仰るようにとても現実の出来事とは思えぬ惨状に茫然としておりました。
ですが気を取り直し、予備自衛官として招集が掛かるを待っておりました。忘れません。
結果的に募金と毛布や衣類等の寄付しか出来ず、今となっては心残りとなっております。
あと私をタイガースへ導いてくれた小林 繁さんの命日と記憶しております。
合掌
当時、仕事で他県に技術派遣されてて、朝から事務所でテレビに釘付けでした。
一緒に仕事をされてた方で神戸やその周辺の方が多く、現場責任者から
「家族の安否が不明なものは、確認の為帰神。残った者で業務をフォロー」との指示が。
戻った方から入ってくる神戸の惨状。
それは報道されていたものを、遥かに超えるものでした。
幸いにも、周辺で大きな被害に遭われた方は殆どおられませんでしたが、今も神戸周辺を
訪れる時には、あの当時の事を思い出します。
東北も一日も早く復興できるといいですね。
全国の虎党は『まさか』が現実に起こる事を阪神から嫌という程 叩き込まれてます。大地震がくるのを想定して色々準備しておきましょう。
当時、宝塚に住んでいて被災したのですが幸い自宅の屋根がずれただけで家族親族に怪我人もなく安堵したものでした。
電気はすぐ復活しましたが水は3週間くらい不通で自衛隊の給水車にはお世話になりました。
あの時当たり前のように使っていた水のありがたさが初めてわかりました。
物資援助等いろんな人に助けてもらって人のありがたみを切に感じたものです。
あれから19年、どんどん風化しそうになる当時の気持ちを忘れないようにしようと思います。
そして東日本大震災の1日も早い復興を祈っています。
その時、私は三重県の現在の家に来ていて、お正月からずっと義父母が腰痛と風邪で、その世話に忙しく、自分の仕事のことを気にしながらの大変な毎日でした。
でも、私自身の兵庫県の家族には大した被害はなかったのですが、知人友人は大変な目にあった人がたくさんいました。
後に電話で友人の死を知り、思いっきり泣きました。
ある友人は二階に寝ていて、屋根の下敷きになりましたが、幸運にも自力で這い出して助かりました。でも未だにグラッときたら体中が震えるそうで、精神科のドクターにお世話になっているそうです。
現在、兵庫県の被災地は以前より美しい街になっています。
東北は津波と原発が大きく復興を妨げています。
1日も早く、少しでも多くの方々が元の生活に戻れることを願います。
あれから19年立つんですね!当時私は大阪に住んでて、神戸にいた友達を呼び暫くマンションに住んでた事を思い出します。
あの惨事は絶対風化させてはいけませんね!
あの揺れ……40秒くらいでしたか部屋の電気が揺れまくりで、次買う時は天井にへばり付いた電気買うぞと思いました(/_;)
うちの息子は生後7ヶ月、その日産院を退院する友達や、出産間近の友達や、震災の年に生まれた学年てずっと言われてますf^_^;
大阪や和歌山にいずれ地震がって言われてたのに、神戸てとビックリでした(-_-)
私はそれから鹿児島でもよく地震にあったなぁ(・_・)
今、サンテレビの震災の番組にはさまれての「熱血!タイガース党」ゲストは新井のにぃに、まだ顔に火傷のあとあるよ(^^ゞ